岩手県政150周年

Historyいわての150年

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Medical Welfare医療福祉(クローズアップ)

医療過疎、災害などの経験を経て、広く県民に質の高い医療福祉を届ける体制を

全国有数の県立病院網ができるまで

 昭和初期、岩手はほとんどが無医村であった。矢作村(現陸前高田市)や奥玉村(現一関市)などで地域住民の組合組織による診療所が開設されたものの限界があり、全県下での医療充実をめざし昭和11(1936)年に「岩手県医薬購買利用組合連合会」が設立された。この時代、医師らが旗を持って地域を巡回し、民家の座敷などで診療や衛生講話を行ったという。戦時下統制、戦後処理などを経て昭和23(1948)年に「岩手県国民健康保険団体連合会」と「岩手県厚生農業協同組合連合会」が医療事業を継承。昭和25(1950)年に発足した「公的医療機関運営準備委員会」では、これらの医療機関の運営について大議論が交わされた。当時の阿部千一岩手県副知事や、県営医療生みの親と言われる佐藤公一ら多くの医療関係者により議論が尽くされ、県営とすることが決定。ここに「県下にあまねく良質な医療の均てんを」という岩手県立病院ネットワークの礎が築かれたのである。災害や新興感染症など、様々な危機に岩手県は直面してきたが、このネットワークをいかした対応は全国でも高い評価を受けている。

医療過疎の時代に立ち上がった先人たち

 沢内村(現西和賀町)で保健婦の導入等に取り組み、乳幼児死亡率ゼロを達成した深澤晟雄村長。また、岩手県保健婦第1号で、岩手の看護、保健活動の草分け伊藤シクメなどが、岩手医療の黎明期を支えた。

いわての災害時医療

 平成23(2011)年3月の東日本大震災津波の際には、発災当日から9日間で全国から計128チームのDMAT(災害派遣医療チーム)が活動に当たった。県では、災害対策本部の中にDMATの調整本部を位置付けたことにより、あらゆる防災機関とDMATの横の連携が円滑に進み救助活動を行うことができた。東日本大震災津波では、岩手県から県外に航空機で傷病者を搬送する、日本初の広域医療搬送が行われた。また、岩手医科大学を中心に「いわて災害医療支援ネットワーク」を立ち上げ、全国に先駆けて医療と福祉が一体となった支援体制を構築した。

新型コロナウイルス感染症への組織的な対応

 新型コロナウイルス感染症は令和2(2020)年1月に国内初の陽性者が確認されたが、岩手では陽性確認ゼロが続き全国ニュースでも話題になった。7月末に県内でも陽性者が確認され、11月頃から感染が急激に拡大していった。
 感染症対応においては、ICAT(いわて感染制御支援チーム)やDMATが医療福祉施設等におけるクラスター制御タスクフォースとして活躍した。
 ICATは東日本大震災津波の対応から生まれた組織であり、広域搬送の様子コロナ対策でも力を発揮した。